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 さて、「高松散歩」のコーナーを作ったはいいけど、どんなことを書こうか??・・・  と、思い悩みながら、決めました。

 ★ このコーナーでは、私の好きなこと、街で見つけたこと、趣味の音楽、スポーツあたりを中心にごった煮でしかも文体等にもこだわらずに徒然日記風に記していきます。
 独断と偏見で勝手な言い分も出てこようかと思いますが、そこはご容赦を。

■■■ 第九十回 ■■■

念願のイサムノグチ遊具完成

6月14日

 私が、高松市長に就任する以前から、個人的にもぜひ実現させたいと思っていた事業が完成し、その記念式典が先ごろ行われました。
 活動報告でも記した、中央公園に「イサムノグチ遊具」を設置する事業です。

 イサムノグチ氏は、言うまでもなく、20世紀を代表する世界的な彫刻家で、金子正則元香川県知事の招聘により、日本におけるアトリエを旧牟礼町に構え、亡くなるまでの約20年間にわたって、旧牟礼町において石を中心とした彫刻の制作を行っていた高松市に縁の深いアーティストです。
 そのイサムノグチ氏と高松市との結びつきをアピールすることにより、同じくイサムノグチ氏と縁の深いニューヨーク市や札幌市とも高松市が直接的に結びつくことができ、新たな創造、発展の機動力が生まれるのではないか、ということを、市長選挙出馬の記者会見(平成18年11月6日)でも喋らせてもらいました。

 また、イサムノグチ氏の作品制作の助手として長年付き添われていた、現イサム・ノグチ日本財団理事長の和泉正敏さんとも以前から面識があり、帰郷した時にご挨拶に行くと、喜んで迎えてくれた思い出もあります

 そのような思いが積み重なり、いつか、高松の中心部に、イサムノグチ氏の作品をシンボルとして設置したいと思っていたのですが、それが今回、国の財源措置のもとに市内全域の公園遊具をリニューアルする一環として、中央公園にイサムノグチ氏設計の3基の遊具(オクテトラ、プレイスカルプチャー、シーソー)を設置することが実現できました。本当に嬉しく思っています。

 イサムノグチ氏の生前の文章や発言録を見ていると、彼が「子供の遊び場」というものに特別な思いを抱いていたことがわかります。その代表的な彼の言葉を最後に記して、この事業完成の記念として残しておきたいと思います。

〈子供の世界〉Playground
 ブランク―ジは、芸術家が子供であることをやめた時、芸術家でなくなるであろうと言った。子供らは大人とは別様に世界を見ているに違いない。そして世界の可能性についての意識はもっと素朴で、彼らの能力と調和していると私は思う。大人が子供のような想像力をもったとすれば、世界は一変して全く新しい体験として眼に映るに違いない。私は遊園地を、単純な、不思議な感情を喚起する、形態と機能への入門書として、したがって教育的なものと考えたい。子供の世界は、新鮮で明るく澄んだ、はじまりの世界であろう。

(イサムノグチ著/小倉忠夫訳「イサムノグチ ある彫刻家の世界」美術出版社1969年)


■■■ 第八十九回 ■■■

第2回日仏自治体交流会議 IN 金沢

5月13日

 5月11日の午後に高松を出発し、12日と13日にわたって「金沢21世紀美術館」を主会場に、「地方ガバナンスと持続可能な発展」を全体テーマに行われた「第2回日仏自治体交流会議」に参加してきました。
 この会議は、日仏修好150周年の記念の年であった2008年の10月にフランスのナンシー市で第1回の会議が行われ、その成功を元に、ナンシー市と姉妹都市であり、日本を代表する歴史文化都市である金沢市で今回の2回目の交流会議が催されたものです。 



 今回の会議では、前回を上回る日本側26自治体130名、フランス側18自治体70名の参加があり、ホスト役である金沢市の手厚いもてなしにより大いに盛り上がった大成功の国際交流会議となりました。フランス側では、フォール駐日フランス大使もほぼ全日程に参加され、ロシノ・ナンシー市長は言うまでもなく、シラク大統領時代に経済大臣を勤められていたというソーター・パリ副市長など、錚々たる顔ぶれがそろい、わが姉妹都市であるトゥール市からは、ジョナタン副市長ら3名が参加してくれていました。

 第1回のナンシー会議にも参加した私は、今回、全体会議における日本側のトップバッターで、文化を通じたまちづくりの具体例として、「瀬戸内国際芸術祭2010」の概要を発表しました。聴衆の関心は非常に高く、特にフランス側の出席者のほとんどの人が、

是非とも芸術祭に行ってみたいとの声を上げていましたし、具体的に日程や交通手段を聞いてくる人もいました。この現代アートの祭典、少なくとも、フランス人にはうけること間違いなし、との手ごたえありです。

 その他の詳しい会議の内容の報告は、ここでは割愛しますが、会議の内容もさることながら、金沢の伝統芸能や食という文化がぎっしりと詰まったプログラムが組まれており、2日間の間に、私自身、何度も感動を味あわせてもらいました。この盛り上がりは、長らく金沢の歴史と伝統を重視した素晴らしいまちづくりを進めてこられた金沢市の山出市長の抜群の政治力、指導力の賜物でありますが、何か、その集大成を今回体験させてもらったような感じで、本当に充実した時間を過ごさせてもらいました。

 まず、会場がその建築も含めて、今、日本で最も注目を浴びている美術館と言っていい「金沢21世紀美術館」であること。そして、12日の昼食会場は、旧石川県庁本館を改装した「しいのき迎賓館」に、今月オープンしたばかりのフランスのミシュラン3ツ星45年の名店の支店「ジャルダン ポール・ボキューズ」だったこと。さらに、驚いたことにポール・ボキューズ御本人が店に来ていて、陣頭指揮をして料理を出してくれたこと。これには、フラン





ス人参加者も「信じられない」といって感激の極みといった様子でした。





 また、夜は夜で、能楽堂で金沢ので能芸能として伝えられている能(演目は「葵上」)を鑑賞。そして、そのまま創業250年という古い歴史を持つ料亭での金沢市長招宴。招宴の中では、先月、高松に来て栗林公園で素晴らしい芸能を披露してくれた金沢の芸者衆が揃って素囃
子と舞を披露してくれました。招宴の最後には、日本とフランスの参加者全員から次々に、万歳のような、拍手のような歓声が起こりました。
 そして、今日の共同コミュニケ「金沢宣言」を取りまとめた全体会議の終了後では、美術館の前庭で、江戸と金沢にしか残っていないという消防の「加賀鳶」はしご登りの披露までありました。

 加賀百万石の歴史と伝統文化が生き生きと現代に息づいている金沢というまちで、日本とフランスの自治体代表者が文化、経済、環境、社会の分野でそれぞれの共通課題を議論し、お互いの交流を深めあった、色々な意味で大きな意義を持った交流会議に参加できたことは、本当に幸せに感じています。
 帰高したばかりで、その興奮が若干冷めやらぬ中、この感動と経験を、しっかりと高松市のまちづくりにも生かしていければ、と思っています。

 金沢に学ぶべし、です。


■■■ 第八十八回 ■■■

大名庭園と伝統芸能の見事なコラボ。そして、金沢と高松。

4月25日

 今日は、金沢の芸妓さんと小唄などのお師匠さんなどが、栗林公園の特設ステージで、伝統芸能の舞や踊りを披露する催しがあり、案内を受け行ってきました。<四国新聞の記事

 この企画は、香川県の観光協会の梅原会長の発案で、高松・香川の転勤族の支店長さんらを中心とした集まりである笑狸会の皆さんが、金沢・石川の同様の会である0(ゼロ)の会との交流を図ったことをきっかけとして、今後、幅広く交流を図って行こうと生まれたものです。
 高松・香川と金沢・石川の交流としてまずは、お互いの持つ特別名勝である大名庭園、栗林公園と兼六園の交流をということになり、金沢から芸妓衆を呼び、高松の栗林公園で、その伝統芸能を披露してもらおうということに相成ったようです。


 今日のステージでは、まず、金沢から来た小唄、三味線の師匠に、高松在住の上方舞の第一人者である吉村ゆきぞのさんの舞を合わせた「白扇」が披露され、その後、一舞一管の「三番叟(さんばそう)」や華やかな金沢芸妓による舞台が続きました。

 雲ひとつない青空で、眩しいほどの春の光の中、栗林公園の鮮やかな新緑と、落ち着いた佇まいの掬月亭をバックにした特設ステージで繰り広げられた伝統の舞踊、芸能。30分強のその時間は、まるで、数百人の観客を含めて、大きな自然のコンサートホールで包まれているかのような、一体感が漂う、不思議な時空を感じることができました。
 栗林公園という天下に名だたる大名庭園と邦楽と舞踊に芸能の取り合わせが見事に調和していて、本物は、時間を超越して、その瞬間その瞬間で見事なコラボレーションを作り上げることができるものなのだ、という感慨を持ちました。

 雑誌BRUTUS(3月1日号)の「魅力ある地方都市ランキング」では、金沢市が第6位で高松市が第7位にランクイン。両都市とも非常に高い評価を得ています。金沢は、加賀百万石の歴史と小京都といわれる街並みと伝統文化が残る街。観光でも非常に人気の高い都市で、お手本として、いろいろと見習うところの多い都市です。そして、人口も高松市が約42万人で、金沢市が約46万人で双方ともに中核市。私(高松)から言うのは、少しおこがましいところもありますが、お互い似たところも多い、良きライバルにもなりうる都市です。

 来月(5月)中旬には、金沢市で開催される日仏自治体交流会議に私も参加する予定で、久しぶりに金沢を訪問します。今日の大名庭園と伝統芸能の交流に続いて、高松と金沢で様々な分野での交流が広がって行くことを期待し、山出市長さんともいろいろとお話をしてみたいと思っています。





■■■ 第八十七回 ■■■

グッジョブ 中北監督!!

4月14日

 活動報告でも書きましたが、今日、先のバンクーバー冬季パラリンピックで見事銀メダルを獲得した、アイススレッジホッケー日本代表監督の中北浩仁さんが、市役所に表敬訪問に来てくれました。
 中北監督は、高松市出身です。冬季オリンピックに本市出身の人がいるとは、全く予想もしていませんでしたので、私もパラリンピックの銀メダル報道の時に初めて知って驚きました。



 詳しく聞いてみると、
 6歳で、高松国際ホテルにあったスケートリンクでアイスホッケーを始めてその魅力に虜になり、紫雲中学を卒業すると同時に高校は、カナダへアイスホッケー留学。そのまま大学もアメリカでアイスホッケーのプロ選手を夢見てひたすら練習に励んでいたとのことでした。ところが、大学4年生の時に膝の靭帯断裂により、突然選手生命を断たれ、現役を引退し、卒業と同時に帰国、日立製作所に入り、アイスホッケーとは無縁のサラリーマン生活を送っていたそうです。そんなところへ、障害者のアイスホッケーであるアイススレッジホッケーの日本代表監督の話が舞い込み、2002年から指導をはじめ、2006年のトリノでは5位。そして今回のバンクーバーでは、準決勝で地元強豪のカナダを破り、決勝ではアメリカに惜敗したものの、見事銀メダルを獲得、栄冠に輝いたものです。

 監督にはメダルはくれないんで、とのことで銀メダルは拝めませんでしたが、表彰式後に全選手が15個の銀メダルを監督の首にかけてくれた時は、本当に嬉しかったと笑顔いっぱいで報告してくれて、その時の写真と選手全員のサインの入った色紙をいただきました。


 中北監督を一言で言い表すと「礼儀正しい熱血漢」、「熱く燃えるナイスガイ」です。会って話した途端に、その熱き心とエネルギッシュな情熱を感じました。そして、監督と日本代表チームのモットーは「RESPECT」(尊敬、思いやり)とのこと。そのモットーを体現していることが、にじみ出てこちらにも誠実さが伝わって来ました。

 日立製作所の広報ビデオでアイススレッジホッケー日本代表の練習の様子を見ても、指導を受けている選手の表情などから、選手全員が監督を信頼し、その熱き情熱に応えようと一致団結していたことがわかります。だからこそ、地元で優勝候補の呼び声も高かったカナダを破り、銀メダル獲得という素晴らしい結果が残せたのでしょう。

 監督は、次のソチオリンピックには、地元の香川県出身のアイススレッジホッケー選手を育てて連れて行きたい、との嬉しいコメントも残してくれました。だれか、挑戦してみたい人は、いませんか。

 ところで、会談後、NHKの求めに応じて、「夕6(ユウロク)カガワ」の発声とポーズを二人で決めたのですが、すかさず中北監督が「グッジョブ タカマツ!!」、とエールを送ってくれました。
 こちらこそ、「グッジョブ 中北監督!!」です。


■■■ 第八十六回 ■■■

祝!第2回高松国際ピアノコンクール大成功

3月31日

 少し、アップするのが遅くなったが、3月17日から始まった第2回高松国際ピアノコンクールは、27日に本選が行われ、28日入賞者の発表と表彰式および記念演奏が行われて大成功裡に幕を閉じた。

 記念すべき高松市の市制施行120周年に行われた第2回コンクールは、私が広報誌のコラムで書いたように関係者の絶大なるご尽力により、期待した通り、「ピアノという鍵盤楽器がまさにキー(鍵)となり、高松の新しい芸術文化のステージの扉を開いてくれる」こととなった。
 運営も非常にスムーズであり、出場者や観客の評価も非常に高かったと聴いている。そして、開催前の下馬評の通り、出場者の演奏の水準も非常に高く、特に、優勝したアレキサンドル・ヤコブレフさんの演奏技術は特筆すべきものがあったようだ。

 私が実際本番の演奏を聴けたのは、一次予選のごく一部と二次予選20人のうちの半数の10人。それに本選は午前中の2人だけであったが、最後に1位から3位の入賞者による記念演奏をすべて聴けたのは幸せだった。



 今回私が聞いた演奏の中で一番を上げるとすれば、記念演奏会で聴いたヤコブレフのストラヴィンスキー「ペトルーシュカ」である。これだけの難曲を全くものともせず、軽やかに楽しそうに弾いていたその超絶技巧の完璧さに、なぜか笑いがこみ上げ鳥肌がたつほどであった。また、課題曲の最優秀演奏に輝いた第3位のリー・ユンーアンのこのコンクールのために委嘱作曲された「栗林の四季ー庭園にて」の演奏は、栗林公園の緑と水の風景が透明感あふれる画像で目の前に浮かんでくるような秀演だった。

 次は、4年後。関係者は早くも次の開催に向けての課題を口にしていて、準備態勢に入ろうとしている。
 これだけの素晴らしい芸術文化の財産を高松市に根付かせてくれようとしている実行委員会の綾田会長をはじめとした関係者の皆様に、改めて心から感謝御礼を申し上げたい。


■■■ 第八十五回 ■■■

異文化衝突の衝撃に感激

2月24日

 アルファあなぶきホールで開催された「’4HANDS’AGAIN  OUT OF PLACE(’4ハンズ’再び アウト オブ プレイス)」と題された音楽とアート(アクションペイント)の融合した異文化交流ステージにお誘いを受け、行ってきた。私が、ジャズや現代アートが好きだということが高松出身の西村記人さんの耳に入ったようで、チケットをいただいたのだ。

 アート(アクションペイント)はその西村記人が担当。音楽の方は、ピアノの山下洋輔、大鼓の大倉正之助、ギターの大友良英、DJの松浦俊夫に、DJ’sのU.F.O(矢部直とラファエル・セバーグ)という豪華メンバー(DJ3人の名前は初めて聞いたが、その世界では相当有名らしい)が勢ぞろい。

 彼らが、第一部では1対1、あるいは1対1対1のコラボで思い思いに即興でのパフォーマンスを仕掛け合い、それが異文化接触異文化衝突となって火花を散らすやら、融合して溶け合うやら、やってみてのお楽しみというステージを繰り広げてくれた。
 そして第2部ではこの6人+急遽参加1名(名前は忘れた)の7人の侍が一堂に会してのパフォーマンス。
 この第二部のステージでは、DJが生み出すクラブ風のリズムが効いた電子音楽にエレキギターの金属摩擦音がキーキーと鳴り響き、ステージの底と背後から聞こえるような大倉正之助の囃しと鼓の音が間合いを取り、山下洋輔のまさに打楽器的奏法のピアノの音が幾層にも乗っかるという感じの音楽がわんわん響いている空間の中心で、西村記人が痩身をくねらせ、骸骨の踊りのようなシルエットを見せながら、アクリル板に絵具を塗ったり、叩き付けたりしてペイントしていく。

 それぞれの分野で一流の個性と個性がぶつかりあって、反発したり溶けあったりしたりしながら圧倒的な緊張感と心地よさを生みだしていた。
 途中10分間の休憩をはさんでの約2時間の公演は、あっという間であり、もやもやしていた頭もすっきり。言葉で表現することは難しいが、感激、感動のステージであった。
 あえて言い表すなら、「これぞジャズ!という喜び」というところか。

 芸術文化は人に生きる力、生きる喜びを与えてくれる、それを今日は自分自身で体感できたことが嬉しい。


■■■ 第八十四回 ■■■

「長楽無極」(長き楽しみ極まり無し)

2月24日

 今年も高松市職員文化展に書作品を出展しました。2年前に市役所の書道クラブにお誘いを受け、毎年、何か作品を作る動機にもなるかなと思い、出すこととしたものですが、今年は、「硯友展」に出した全紙2枚の大型作品を制作していたため、十分な時間がとれず、自分では十分納得の作品とまではいかないものを出さざるを得ませんでした。でも、それも実力のうち。また、来年の出展に向けて、良い作品が作れるよう精進していきたいと思います。



 字は、「長楽無極」(長き楽しみ極まり無し)で、いく久しい楽しみが尽きない、という意味のよく書の作品で描かれるおめでたい4字熟語です。字体はこれも隷書でずっと臨書の稽古を続けている「張遷碑」の字体に倣って書いたものです。

 今回は、他の人も掛け軸作品を出展しており、市役所ロビー正面に、3本並べたその真中に私の作品をかけていただいています。


■■■ 第八十三回 ■■■

見返り美人や太宰府の飛梅

2月10日

 活動報告で記したとおり、10日から一泊二日の日程で、福岡県大野城市で開催された、7世紀中ごろに造られた朝鮮式山城や神籠石の史跡を有する自治体が一堂に会する「古代山城プレサミット」に行ってきました。

 そして、会議の後、前々から一度訪ねてみたかった大野城市のお隣の太宰府市にある九州国立博物館に行ってきました。東京、京都、奈良に次ぐ全国で4番目の国立博物館として平成17年度に開館したこの博物館では、ちょうど特別展「京都妙心寺 禅の至宝と九州・琉球」が開催されていて、禅文化の粋を示す数々の名宝を鑑賞することができました。休日のためか雨天にも関わらず、館内は多くの入場者で混雑していましたが、妙心寺派の禅文化とその心に触れられる名宝の数々を見て、非常に心が洗われるような清々しい時間を過ごすことができました。途中、館内で妙心寺派の地元のお寺の住職の辻説

法も聞くことができ、「知足」の話に、思わず頷きながら得した気分にもなりました。展示品の中で私が一番気にいったお宝は、白隠慧鶴和尚の「達磨図(ギョロ目の大達磨)」です。現代アートに通じる迫力のある達磨様です。
 特別展の観覧を終えた後、文化交流展示(平常展示)も見てきましたが、そこでも思わぬお宝に巡り合えました。切手収集に熱を上げていた小学生のころ、あこがれの記念切手の図柄としてよく目にしていた菱川師宣の「見返り美人図」です。思ったより小さい浮世絵でしたが、色の鮮やかさとしなやかな動きと色気を感じさせる美人画にしばし見とれました。

 名品の数々を見てうっとりとしながら、九州国立博物館を出て、トンネルのほうに歩き、動く歩道を通って、エスカレーターを降りると、そこは既に太宰府天満宮の境内となっています。本殿もほど近く、生憎の大雨の天気でしたが、道真公が京都を去る時「東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」と歌い残した梅が、次の年に道真公をしたって一晩で太宰府に飛んできて花を咲かせたという言い伝えのある本殿前の飛梅が、ちょうど満開でした。その飛梅を愛でながら、天満宮にお参りをすることができました。

 古代山城、妙心寺、見返り美人図、太宰府天満宮、飛梅などなど、歴史の深い北部九州という土地柄もあり、古代から中世にかけての日本の歴史の生々しさや名宝の数々に触れ、大いなるロマンを感じることができた視察の旅となりました。


■■■ 第八十二回 ■■■

嬉し恥かし−硯友展に書作品を出展

1月19日

 私が書を習っている小森秀雲先生が会長をしている書道愛好家の団体、硯友会が高松市美術館で隔年開催している展示会、硯友展に私の書の作品を出展しました。もちろん、こうした正式の展覧会に、しかも美術館の展示室に自分の作品を出すのは、初めての経験であり、ついこの間までは、そんな大それたことができようとは想像もしていませんでした。それが、小森先生の強力な(強引な)お勧めもあり、現実のものとなりました。





 作品は、2ヶ月ぐらい試行錯誤をしながら仕上げた張遷碑(後漢186年。書体は隷書)の一部を全紙2枚に臨書(原本に忠実に写し書くこと)して、2曲屏風に仕立て上げたものです。自分では、ある程度満足した出来ではありましたが、所詮、本格的に書を習い始めて3年程度の腕前。展覧会に出すことだけでも、とても恥ずかしい思いでした。
 その上、今日展示会場に入ってさらにびっくり。私の作品が、会場正面のガラスのショーケースの真ん中に位置していて、小森先生の大作と隣り合わせに飾られているではないですか。

 「この場所に置いて貧弱に見えず、存在感があるのは大したものだ。」と小森先生や関係者に過分な褒め言葉をいただきましたが、書いた自分自身は、どうしても、作品の粗ばかりが目に付いて、赤面の至り。もう少し、あの部分を丁寧に書いとけばよかったとか、あれこれ考え、反省が先にたちます。

 でも、こんなに光栄なことはめったにありません。
 書道の上では、まだまだ、駆け出しの身。これを、大きな励みとして、2年後の硯友展では、より水準の高い作品を出展できるよう、大いに励んで参りたいと思います。

 時間と空間の無さを言い訳にせず、にね。


■■■ 第八十一回 ■■■

不易流行

1月12日

 活動報告でも書きましたが、昨日の成人の日に、サンポートホール高松で行われた高松市成人式の主催者代表挨拶兼祝辞で、松尾芭蕉の言葉とされる「不易流行」について触れ、今年の成人式のテーマに引っ掛けて、「一時的な流行に惑わされず、「不易」、いつの時代にも変わらないものをしっかり見据えながら、「New Sensation」を巻き起こしていただきたいと思います。」と話しました。

 この「不易流行」と言う言葉。前々から気になっていた言葉でしたが、いまひとつその言わんとするところがつかめず、これまであまり使ったことはありませんでした。もともとは、芭蕉が俳諧について「奥の細道」の旅を終えて到達したとされる論理で、「不易、流行、その基一つなり。不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず」という言葉がもとになっているようです。
 ある解説によると、「いつまでも変化しない本質的なものを忘れない中にも、新しく変化を重ねているものをも取り入れていくこと。また、新味を求めて変化を重ねていく流行性こそが不易の本質であること。」とありますが、同時に「解釈には諸説ある」とされていて、用法も使う人の都合にによって、様々であるようです。

 今回、この言葉を新成人に問いかけてみよう、と思い立ったのは、新成人の運営スタッフが決めた今回のテーマである「New Sensation」についての解説の中で、このテーマは同時に「自分達が心の中に抱く「変わらないもの」を大切にする気持ちをいつまでも持ち続けようというメッセージ」も込められている、ということを知ったから。そういう趣旨なら、古い(?)言葉で言えばこの「不易流行」という言葉になるのではないか、と結びついたものです。

 「不易流行」。メッセージとして自分の口から発しはしましたが、まだまだ、自分の中でも消化はし切れてはいません。
 それも当然と言えば当然です。江戸時代初期において現代の俳句につながる俳諧の芸術性を大いに高め、俳聖と呼ばれる松尾芭蕉が、晩年に到達した一つの極みの境地(俳論)を表現した言葉なのですから。

 いつか、「あっ、こういうことか」と閃き分かる日が来ると良いのですが、それまでは、普通に「変えるべきでないものを大事にしながら、環境の変化に対応した目新しさを追い求める」、「基本(定型)を大事にしながら、斬新な応用(新味)を施していく」ことを心がけたいと思います。
 でもそれ自体が、言うは易し、するは難し、ですね。


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